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  白倉氏の興り(児玉党秩父氏)

  • 執筆者の写真: 白倉直樹
    白倉直樹
  • 2024年2月1日
  • 読了時間: 2分

更新日:2024年2月2日


                                             

                                                        

児玉氏・児玉党                      秩父氏


児玉氏は、平安時代中期の公卿 藤原北家流・    秩父氏は、鎮守府将軍・平良文の孫 で桓

藤原伊周の家司だった有道惟能が鎌倉期前武   武天皇六世の平将門を祖とする一族、秩父

蔵野 国に下向し、その子惟行が神流川の中流   郡中村郷に居住し秩父氏を名乗り、子武基 部 にあった阿久原牧を管理住したのが祖であり   が秩父牧を支配する別当となり吉田郷に館

子孫が多く児玉党を名乗り武士団を結成して武   を構え、重綱の代には武蔵野国留守所総

蔵国北端(埼玉県本庄市・児玉郡)を中心に拠点  検校職に就任し大王と呼ばれ勢力を持っ  を置いていた。                        た。重綱の子たちは、畠山氏、河越氏、高  :************************************** 山氏、江戸氏を称し独立し、源頼朝による

                                 鎌倉幕府設立を助けた武士団であった。    

 秩父・上野への拡大

   有道惟行の子経行の娘を秩父重綱(平重綱)に嫁がせ、次男行重及び三男行高を秩父

  氏の養子にし、児玉党秩父氏を興す。

 

 白倉氏の興り

   秩父行重の孫、秩父三郎成季が上野国甘楽郡白倉牧の地頭源重満の二女へ婿入りし、

  1,202年新たに白倉を冠し児玉党白倉氏を名乗る武士団を結成1,221年に白倉三左成

  氏が白倉城(麻場城・新屋城)を築き甘楽郡白倉に拠した。


 <源重満の出自について>

    清和源氏(清和天皇(859年頃から878年頃)の流れをくむ

                            (品籍降下: 皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍 に降りること)

   その、流れは

      貞純親王(清和天皇の子)→源 経基  清和源氏の祖、子に嫡子 満仲(頼朝系) 次男満政など、→源満政          検非違使、左衛門大尉、鎮守府将軍などの官を勤め、尾張へ勢力を伸ばす。→源 重直 尾張源氏の祖(母は源        義家女)として尾張国河辺浦野・ 山田郡などへ 勢力を拡大する。山田氏・浦野氏を名乗る。→ 源 重満  美濃

     の国へも勢力を拡大する。 美濃源氏の祖(妻源行家娘)  

       しかし治承5年(1181年)の墨俣川戦いで敗戦、頼朝へ身を寄せ家臣となり、号を山田太郎重澄とも名乗る。治承6      年3月6(1182年)白倉邑を与えられ地頭となる。  (現:甘楽郡甘楽町白倉)・・吾妻鏡 

     なお、尾張美濃の源氏一門は墨俣川の敗戦により勢力が縮小したことと頼朝と距離を置く姿勢から粛清されて失脚

     してしまう。義父、源行家は木曽義仲へ走る

 
 
 

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