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八重原堰と新田開発  

  • 執筆者の写真: 白倉直樹
    白倉直樹
  • 2023年3月18日
  • 読了時間: 2分

更新日:4月6日

     八重原の元始


    江戸時代初期の用水開削に伴う開発が始

   まる以前の八重原には、羽毛山邑・下ノ城邑

   などの一部の人達、また武田氏の崩落により

   武士から農士に身分をかえた人達が明神沼か

   ら下り流れる水を利用して田畑を耕し稲作を中

   心とした生活を営んでいた。この人達は古開の

   人達と呼ばれている。

    また、当時は八重原郷下居邑と呼んでいた











八重原堰水路図(開発時)

  (水路そう延長55キロ)







水源地(蓼科山西側山麓:大滝)

    

水源:蓼科山伏流水が湧き出している。


水路(現在の川西土地改良連合管理水路へ流れ込むまでの水路:開発時そのまま)




牛首作業小屋

  (田植え前などに、冬季間に傷んだ水路修繕のため寝泊りしていた作業小屋と人々)












作業指揮に出掛ける黒澤翁











 

 牛首小屋跡地絵図









現在の小屋跡











現在の水路












使用されなくなった水路(笠取峠松並木付近)









枡(マス) (地区へ分水する水門:枡幅は水田面積により決められている。写真の枡は大正9年に作成されたもの)

江戸期は、一番枡は藤原田への分水、二番枡は上八重原への分水、以下下流は下セギ(シモセギ)と呼ばれ三番枡は、明神池下枡であった。









<明神池>


 1,664年明神沼に堤を築き、貯水を始める。現在は14万トンの貯水(揚水式)が出来る。

遠望に見える山が水源の蓼科山であり永延55キロを流れ下って明神池に流れ込んでいる。


<八重原諏訪神社>

 諏訪神宮、八幡神宮などが祭られている。

  

   <神楽殿>

  


  <戦期における記録>

    1.945年昭和20年に陸軍士官学校生の疎開先となり、ここでは馬術部100名が馬20    0頭を保有して野営し本土決戦に備えていた。この神楽殿には、その際使用した大きさ一     畳より大きい太鼓が保管されている。


 以降、次回追加致します。

 


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