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白倉氏の興り(児玉党白倉氏)

更新日:2025年12月22日

白倉氏について、児玉党の西上野への侵攻過程(勢力拡大)から考察した。


                                                                                            児玉氏                       


  児玉氏は、平安時代中期の公卿 藤原北家流・藤原伊周の家司だった有道惟能が鎌倉期前武蔵野 国に下向し、その子惟行が神流川の中流基部にあった阿久原牧を管理住したのが祖で

子孫が多く児玉党※1を名乗り武士団を結成して 武蔵国北端(埼玉県本庄市・児玉郡)を中心に拠点を置いていた。                     


秩父氏


秩父氏は、鎮守府将軍・平良文の孫 で桓武天皇六世の平将門を祖とする一族、秩父郡中村郷に居住し秩父氏を名乗り、子武基部が秩父牧を支配する別当となり吉田郷に館を構え、重綱の代には武蔵野国留守所総検校職に就任し大王と呼ばれ た。重綱の子たちは、畠山氏、河越氏、高 が秩父牧を支配する別当となり吉田郷に館 山氏、江戸氏を称し独立し、源頼朝による鎌倉幕府設立を助けた武士団であった。


秩父・西上野への勢力拡大


  有道惟行の子経行の娘を秩父重綱(平重綱)に嫁がせ、次男行重及び三男行高を秩父

 氏の養子にし、児玉党秩父氏を興す。

 

白倉氏の興り


  秩父行重の孫、秩父三郎成季が上野国甘楽郡白倉牧の地頭源重満※2の二女へ婿入り し、1,202年新たに白倉を冠し児玉党白倉氏を名乗る武士団を結成1,221年に

白倉三左成氏が白倉城(麻場城・仁井屋城)を築き甘楽郡白倉に拠した


 ※2<源重満の出自について>

    清和源氏(清和天皇(859年頃から878年頃)の流れをくむ

     (品籍降下: 皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍 に降りること)

   その、流れは

    貞純親王(清和天皇の子)→源 経基  清和源氏の祖、子に嫡子 満仲(頼朝系) 次男    満政など、→源満政  検非違使、左衛門大尉、鎮守府将軍などの官を勤め、尾張へ勢力を伸

   ばす。→源 重直 尾張源氏の祖(母は源義家女)として尾張国河辺浦野・ 山田郡などへ

   勢力を拡大する。山田氏・浦野氏を名乗る。→ 源 重満 美濃の国へも勢力を拡大する。 

   美濃源氏の祖(妻源行家娘) 、しかし治承5年(1181年)の墨俣川戦いで敗戦、頼朝へ身

   を寄せ家臣となり、号を山田太郎重澄とも名乗る。治承6年3月6(1182年)白倉邑を

   与えられ地頭となる。  (現:甘楽郡甘楽町白倉)・・吾妻鏡 

    なお、尾張美濃の源氏一門は墨俣川の敗戦により勢力が縮小したことと頼朝と距離を置く

   姿勢から粛清されて失脚してしまう。義父、源行家は木曽義仲へ走る




※1<児玉党>


 児玉党(こだまとう)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国で割拠した武士団の一つで、武蔵国最北端域全域(現在の埼玉県本庄市児玉郡付近)を中心に入西秩父上野国辺りまで拠点を置いていた。

 そして、武蔵七党の一つとして数えら武士団の中では最大勢力の集団を形成していた。家紋は、軍配団扇紋であるが、諸氏による派生紋・続葉紋が生まれた。その後、時代の流れと共に各地へ散らばってゆく。児玉党をはじめとする武蔵七党の各武士団・諸氏族は蒙古襲来(元寇)に備えるため鎌倉幕府の命により、西方遠くは、安芸国九州(最西は、小代氏肥後国・野原荘)まで及びその防備につくため下向し土着したものである。



 戦国時代の西上野の砦

児玉党児玉秩父氏系図


 
 
 

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