白倉城(麻場城・仁井屋城)及び周辺の考察
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更新日:14 時間前
1. 白倉城
麻場城は、甘楽町の東北丘陵地帯の舌状台地上の先端部に立地した丘城である。この地の豪族白倉
氏の居城であり、約500m東方にある仁井屋城と合わせて白倉城と呼ばれている。
そして別城一郭(双子城とも言って、二つの城が一人の城主のもとに相助けて戦う構造)の形態といわれている。


城主の白倉氏は、鎌倉期から江戸期前まで当地に拠した豪族であり、1,221年に築城された。室町期には、関東管領山内上杉氏に仕え上州八家(小幡・白倉・安中・倉賀野・桐生・由良・山上・沼田)の一家で、上杉氏の重鎮として四宿老(長尾・大石・小幡・白倉)を務めていた。
2. 麻場城
大手門側から城の入口
現在は両側農地となった約300m位の直線の農道となっている。奥側が城の虎口にあたる。

城の想像図(公園入口に設置されている)

二の丸(二郭)址
城に入ると
二の丸址、南北に約60m東西に約30mの長方形であり平に整地されベンチやトイレが整備
されている。


二の丸と本丸との間には囲堀(空堀)が掘られていて幅約15m深さ約6m位底幅4m位である。




北側中央に、本丸との間に土橋があり連結している。
本丸址
本丸址、南北約50m東西は南側約70m北側約42mの長方形であり囲堀の幅は15m程である。

二の丸側との土塁

ささ郭
本丸北側には橋で連結されている「ささ郭」があり、東・西には狭い帯郭が付いている。


そこには、模擬櫓風の展望台が公園整備の折りに設置されている。

展望台からの眺め
先人達も眺めていたと思われる山並み


曲輪
本丸の北側には曲輪が有り、橋でつながっている。
これは城跡整備の折りに東側に駐車場を設置してそこに下りて行くために橋を新たに作り、当時は虎口としては無かった記された標柱がある。

曲輪から駐車場へ下りて行く道路への接続用の橋


駐車場が整備され、登り口には白倉城案内板が設置されている。

まとめ
500m隔てた麻場城・仁井屋城の両城からなる典型的な別城一郭の城であり、その拠る所は孫子の「常山の蛇」でないかと言われ、城主白倉氏は孫子の思想を学び具現化したのではないだろうか。
それは、仁井屋城の本丸は方30m、南北に堀を隔てて各一郭が付き、西には三郭を通し
空掘が掘られているが東面は急崖で堀はない。麻場城は堀が大きく防禦の城、仁井屋城は四方に虎口を
開いた攻勢防禦の城であり、それぞれ役目を持たせていたようである。
他周辺には
居館址
白倉川の右岸に居館があり一丁屋敷と呼ばれていたようである。現在は民地となっている。

堀水取り入れ口
白倉川(小野瀬川)上流約1Kmの右岸に城の堀に入れていた水の取り入れ口が有ったとされている。
現状は河川改修等からか確認が出来ない。

八幡神社址
戦勝祈願をしていたと言われている八幡神社の址が、城の西側にある。明治時代(明治42年6月17日)白倉神社に合祀されて建物は無く地頭だけが残っている。


仁井屋城址
仁井屋城の本丸は方30m、南北に堀を隔てて各一郭が付き、西には三郭を通し空掘が掘られている。しかし、本丸址など現在農地になっている。

調練馬場の址
仁井屋城西側にその址がある。南北約350mの直線の平地となっている。

追記 甘楽町による城紹介文
麻場城は、甘楽町の東北丘陵地帯の舌状台地上の先端部に立地した丘城である。当城は、この地の豪族白倉氏の居城であり、約500m東方にある仁井屋城と合わせて白倉城と呼ばれ、別城一郭(双子城とも言って、二つの城が一人の城主のもとに相助けて戦う構造)の形態といわれている。 城址公園整備に伴い、平成元~3年(1989~1991)に調査が実施され、本丸(城の中心となる曲輪で、東西の南側約60m、同北側約42m、南北約54mの台形状)内には、土塁(土を盛り、たたいて固める)がまわっていたと推考でき、周囲には空堀(上幅約15m、下幅約3.5m、深さ約6mの逆台形)がめぐり、東側の堀と北側の堀のほぼ中央付近には橋を架けたと思われる穴が見つかっている。 虎口(出入口)は、本丸の南側中央にあり、幅約2m弱の土橋構造で、二の丸(本丸を保護する曲輪)へと続いている。 白倉氏は、小幡氏と並んで関東管領上杉氏の重鎮であったが、天正18年(1590)国峯城と同時に落城し、小幡氏とともに滅んだ。 平成4年(1992)4月、麻場城址公園となった。
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