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​八重原新田開発の歴史

​ 江戸時代の始まり1650年前後から始まった小諸藩による新田開発は、御影新田・五郎兵新田・塩沢新田と並び、八重原でも新田開発が行われた。
 新たに用水路が開発され、田畑が用水路の延長と伴に増加して、近隣から人が集まり、村が1,664年頃までに出来上がった。
​ その歴史を記録してみました。

八重原の原始

​ 江戸時代初期の用水開発に伴う開発が始まる以前の八重原には、羽毛山邑・下ノ城邑などの一部の人達、また武田氏の崩落により武士から農士に身分を変えた人達が、天水や明神沼から下り流れる水を利用して田畑を耕し稲作を中心とした生活を営んでいた。この人たちは古開の人達と呼ばれている。
​ 当時は八重原郷下居邑と呼んでいた。

八重原村の始まり

 八重原村の始まりは、新田開発の始まりそのものでり、先人達の辛苦と汗の賜物である。江戸時代初期から明治・大正・昭和・平成と約370年の時を経ても、水の「大事さ」「有難さ」が村民の心に受け継がれ、感謝への気持ちと工夫により八重原米の栽培を主産物とした農業が営まれている。

八重原の歩み

 八重原の歩みは、江戸時代に始待った八重原用水開削に伴う新田開発の歩みそのものであり、用水量の増加と、堰(せぎと呼び、用水を流す堀道)の延長に伴い、近隣の村々から八重原へ人が集まり田畑の開発が盛んにおこなわれ、稲作を主産物とした農村集落が西暦1,660年代初期に出来上がった。
 

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​八重原堰水路図 (総延長55㎞)

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​水源地(大滝) 
   蓼科山西麓から湧き出す伏流水を集めて

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​寝泊りしていた作業小屋跡
 

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​牛首小屋 作業出発準備

​谷越しなどの水橋

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​ 漏水する堰には綿布団を敷き橋梁には竹籠を敷いていた。
 

​   作業指揮を執る黒沢加兵衛(三郎)
​  門前から出発

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​ 現在の水路、川を渡り隧道を潜り八重原まで55㎞標高差約700mを下ってくる。

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​使われなくなった水路(笠取峠付近)

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地区ごとに分流する桝
​  地区ごとの反別数により升幅で分けている。

 

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